武義高等学校90周年記念「○△□の庭」の作庭
――海外・国内の日本庭園作庭から「○△□の庭」まで
原田京子
 皆さまは、修学旅行で金閣寺、銀閣寺など訪ねられたことと思います。京都にはほかにも、桂離宮や修学院離宮、龍安寺など数多くの名園があります。東京にも江戸時代に小石川後楽園、浜離宮、六義園などをはじめ各藩邸に庭園が次々と作られ、その一つ一つに物語があります、まさに庭園ワールドとなっておりました。日本庭園は、文字通り「イメージ・ワールド」の世界なのです。
 日本庭園の材料は、石と水と植栽の三つからできています。例えば、石は、護岸、三尊石組、園路、築山、鶴島、亀島、滝組。水は、滝水、流れ、池。植栽は、生垣など庭園を彩るのに重要です。
 ◎日本庭園の背景にある三つの教理を知ると、わかりやすいと思います。多くの日本人の心の支柱であり、時代によっても人々の願いというものが庭には表れています。
 日本庭園は時代時代によって、いずれも幸せでありたい、という気持ちを庭園に盛り込み表現しています。さらに、武士の時代は、世継ぎは重大でしたから大名庭園では男女のシンボルを表す陽石・陰石が置かれています。
海外の4庭園
<作庭1> シェーンブルン宮殿日本庭園の発見
 さて、私どもがなぜオーストリアのシェーンブルン宮殿に日本庭園を作ることになったかからお話しましょう。1996年、次女がオーストリア共和国の首都、ウィーンで暮らすことになりました。パンツァー(元ウィーン大学教授)著『ウィーンの中の日本』の中で、明治天皇が贈った石で、シーボルト博士を讃えて碑を作り、それがシェーンブルン宮殿の庭園にあるとあったので、それを探しに行きました。残念ながら、シーボルト碑に見つかりませんでしたが、日本庭園らしきものを見つけたのです。
 その後、日本庭園学会会員でもあった夫と両国で3年有余の調査をした結果、次のことが判明したのです。
 「太陽の沈まぬ国」と隆盛な国力を誇ったオーストリア帝国の皇太子フェルディナントは帝王学の一環で世界旅行の旅で日本を訪れました。明治天皇の歓待を受けて、日本大好き人間となり、一ヶ月近くの長逗留をされていました。折しも、イギリス、チェルシー庭園博覧会にオーストリア庭園局長ウムラオフト以下数十人が、視察に行きました。当時、庭園協会会長だったフェルディナント皇太子が派遣したのです。そこに日本庭園や燈籠などが出品されており、その美しさに彼らは驚嘆したと言われております。御礼の電報を皇太子に打電したところ、皇太子は「我が国民に見せよ」と返電されたという記録が「庭園の友」という当時発行された雑誌に掲載されて、図書館に保存されていたのが見つかりました。日本庭園が作られた経緯が判明したのです。
 幸福なことは、Dr.コルブリー庭園局長との出会いでした。優れた判断能力と実行力と誠実な紳士でした。今でもウィーンへ行くと必ず退職後の地方のお住まいから会いに来られます。
 シッシーの愛称で人気のエリザベート王妃が馬を繋いでいたんだ、と広大な森の中の官舎で説明を受け、ウィーン名物のシュニッツェルを奥様の手料理で二度ばかり招待されたことなど、元貴族の品格あるご夫妻との付き合いは忘れがたいものです。
 日本庭園は、1913年に庭園局の庭師さん達だけでつくられたので、作庭手法は違っていましたが、日本庭園の要素は見事に表現されていました。本格的に修復する計画が立てられましたので、「ウィーンがめでた日本庭園」と題して主人が日本経済新聞の文化欄に記事を書きました。日本全国から9組の庭師さんが弟子を連れて作庭に参加したいと申し出があり、本来の庭は完全原形で修復し、更に右に茶庭、左に枯山水を作り、1999年にオーストリアへ贈呈しました。受け手であるモルタラー農業大臣への贈呈式を日本庭園の前で主人から大臣へ贈りました。日本側からは、4代のオーストリア全権日本大使をはじめ、文化センター長、在ウィーン日本人会会員、日本からの日本ガルテン協会員など大勢の人が出席しました。
 大臣からは「ウィーンには、ウィーンフィルがあり、オペラ座があり、シェーンブルン宮殿がある。年間、700万人の観光客が来られる。今日、ここにもう一つ、ウィーンの魅力が生まれました。」と挨拶され、発見のきっかけになった娘も讃えられました。私たちは、一滴の水が一つの川の流れになったことを喜びました。この時の様子は、文化人との交流も多い長女の力もあって、NHKが番組をつくってくれました。「地球に乾杯」という番組で「よみがえった日本庭園の謎」という題でした。美濃市では、長兄の同級生の立木真三さん(中25)や田中紙店の田中すなをさんが番組の放映を皆さんに知らせて下さったと後で知りました。
 シェーンブルン宮殿の「白金の間」で、表彰状をコルブリー局長より協力者お一人お一人に手渡ししてもらいました。ウィーンフィルの四重奏を演奏してもらい、一方、日本からは表千家茶道指南20名がお抹茶を参加者に振舞いたい、お琴二人組も是非にと協力を申し出られ、会場を飾る赤いじゅうたん、金屏風の調達に奔走しました。
 夜は、インペリアルホテルでの華やかな晩餐会。庭を見て5楽章からなる曲を作ってくださったポビチカ氏が自らピアノで演奏を聴かせてくれました。
<作庭2> ウィーン大学「青海波庭園」1999年 
 ウィーン大学は、ノーベル賞受賞者の胸像がずらりと並んでいます。明治時代、既に有名であった歌人であり、医者であった斉藤茂吉氏がウィーン大学の医学部で学ばれました。投宿されたホテルの近くに歌碑も立っています。医師であり、旅行作家でもあったご長男の斉藤茂太氏は、「いつもシェーンブルンを訪れていたであろう親爺がどうして見つけられなかったのだろう」と言われました。
 その医学部の病院が現在、大学のキャンパスになり、研究所が集められ、日本学研究所も移転しました。その校舎に大きな時計台があります。その前に作庭した「青海波庭園」では、全体を海洋国の日本丸に見立て、雅楽、青海波の波形にした青い石を敷きつめ、学問に熱心だった聖徳太子の生地に因んだ生駒の、3tもの大石を据えました。学生へのメッセージ、「楽」「夢」「空」の文字を刻んだ石を置きました。楽しく、夢を持って、内も外も満たした空の生き方をしてもらいたい、というメッセージです。後に、この大学で教えることになった次女は、新入生のオリエンテーションで父の庭が紹介されていると報告してきています。
 青海波庭園から、庭師は、大阪・堺で4代続く岸本駒造園の岸本さんと年季の入った職人さんに担当していただいくようになりました。
青海波庭園の図
<作庭3> チェコ、ピルゼン市「翔和苑」 2004年
 チェコ出身の建築家ヤン・レツル氏が広島の産業奨励館を設計しました。この真上に原爆が落とされ、「原爆ドーム」となりました。このヤン・レツルも大の日本好きだったらしく、和服を着て、写真に収まっています。彼の故郷では大きな保養所の設計をしていますが、玄関の扉、壁面に梅と鶯が描かれ、屋根も瓦のような材料が使われており、異国で懐かしい日本がそこにはありました。
ヤン・レツルと原爆ドームの図
 「翔和苑」は、原爆ドームをテーマに、市の動物園と植物園を合わせ持つ市民の憩いの場となっている丘に、大きな三尊石組に向かって、下から大きな翼を広げて翔び立つ鶴を庭園の真中に、右側には、「二河白道」と燈籠を置き、日本庭園の趣としました。必要に応じて水の出る噴水天然石を遥か上にある道教の遠山石と対比させました。日本のモニュメントをつくるというよりピルゼン市民との交流を重ねてきたため、初日からテレビ、ラジオのメディアの取材攻勢にあいました。
 今では、庭園入口には会長写真入り看板がたち、結婚式もする人達が現れ、清掃や管理がしっかりして、市民の庭になり、市では作庭者の大きな看板もたてて、庭の説明をしております。
翔和苑の看板の図
<作庭4> 韓国霊巖市「神仙・太極庭園」 2006年
 15代応仁天皇の招請によりに百済より王仁わに博士が来朝し、論語と千字文を献じました。上野公園にこの王仁博士の石碑があります。この貴重な漢字をもたらした王仁博士に感謝を込めて、大韓民国全羅南道霊岩市の王仁廟の八千坪という広大な敷地の中に神仙・太極庭園を作庭しました。正面通りの左右に「神仙:神を祀り、不老長寿の楽土を願う。太極:陰陽五行説による繁栄の調和を表す」二つの庭を作庭しました。なお、春の「王仁祭り」は、韓国全国より50万人とも100万人とも言われる人が祝いに集まってくる韓国最大のお祭りのひとつです。
神仙・太極庭園の図
国内の2庭園
<作庭5> 堺市南宗寺「曹渓の庭」 2007年
 禅の開祖インドの達磨ダルマ大師が中国の洞窟で岸壁に対座して禅を求道しました。絶対に弟子をもたないという彼を慕う者も多く、慧可という熱心な僧が自分の腕を断って、弟子にしてほしいと頼む図を雪舟が描いた「慧可断臂図」は有名です。南宗禅は、達磨大師より6代目慧能によって確立されました。慧能は、曹渓という場所(広東)におり、彼が禅法を大成したことから、曹渓禅は南宗禅として日本には、京都、大徳寺に伝わり、別院、堺の南宗寺ができました。
 ここには、沢庵和尚の作庭の庭があり、千利休の茶の師、武野紹鴎の遺愛の袈裟懸け燈籠、千利休が師に捧げた降り蹲踞が実相庵の前にありました。それをつなげる庭を老師から依頼され、作庭しました。達磨大師の禅が慧能によって大成され、慧能の住んでいた曹渓は、禅法の根源といわれ、曹渓の一滴がやがて大河の流れとなる如く、「曹渓の庭」と南宗寺の老師により命名されました。
曹渓の庭の図
<作庭6> 仁川倶楽部「青門」水琴窟 2007年
 大阪、宝塚仁川にある仁川倶楽部は、句会「青門」のクラブ施設です。「青門」は医薬品メーカー「マルホ」の社長でもある高木二郎氏によって運営されていました。氏は「終戦の日に何を感じたか」、その一句を全国から募って、『新編昭和万葉俳句集~新国民句集「昭和二十年八月十五日』(瀧本 博編著 マルホ株式会社文化事業部監修、2004/08)を出版され、それを入選者には勿論のこと、全国の図書館、学校に寄贈されております。私どもが氏と同じようにNPO法人で、文化活動を行ってきたのは、高木氏の影響大であり、それは同じ文化の仕事をしている長女の進言によると主人は言っています。
 仁川倶楽部は、ほとんど山一つ分の敷地の中に茶室とご両親の仏堂と会員のための研修所があります。この仏堂の前に、有田焼の真白な水琴窟に「桜」と「山脈」とを描き二連の水琴窟とした瓶の上に大久保彦左衛門家に伝わっていたという棗形の手水鉢を据えました。
青門水琴窟の図青門水琴窟の図
武義高等学校 ○△□庭園
<作庭7>○△□庭園 2010年
 2005年、五十川則利古城会会頭から主人に武義高等学校の90周年記念の庭の作庭を頼んで欲しい、と申し出があり、二人で武義高校を訪れました。校長先生からは学校を隈なく案内され、予定敷地や図面も用意されていました。五十川前会頭に清泰寺を案内してもらいました。建築学的にも珍しいウダツを見たいと主人と美濃市を十年前に訪れて以来、泊まることのなかった緑風荘に久振りに一泊して帰りました。
 九州博多の黒田藩の主人には、何の縁もないかと思っていたら、暫くして、驚くべき縁があることが分かりました。博多の妙心寺派の聖福寺の123世住持で禅画をよくされ、博多では著名な仙崖和尚が美濃出身であることを知ったのです。仙崖和尚は美濃出身で、しかも私が子供の頃、よく遊んだ清泰寺で得度僧となられた方でした。和尚の禅画は、出光美術館に多く所蔵されています。
 主人は美濃と博多の関連で、禅の考えの一つ「○△□」のテーマで作庭することを決めました。この間、5年くらい月日がありましたが、ちょうどウィーン大学での「日本庭園史」の講座でしばらく日本を離れていましたし、材料の手配で幾度もあちこち調査にいくことがありましたが、無事90周年記念の祝賀会までに完成させることができました。
○△□庭園の図
 この「○△□の庭」は、武義高校で学ぶ生徒さんのためにすべてできております。日本の古典である万葉集から古今和歌集といった日本文化のこころを折込み、仙厓の「○△□」をテーマに選んだのは、この世に生を受けた生徒の皆さん方はたいへんな確率をくぐり抜けて選ばれた大切な人であり、その生を授けてくれた親、祖父母に感謝の念を抱きつつ、愛され、一人では生きていないということを伝えたかったからです。そして、この世に生を受けたからには、中国の登龍門の逸話にあるように、天下に何かあれば選ばれた一匹の鯉が急流の滝を登りつめ、天に昇り、統率者となるように、社会に貢献する人物になって欲しかったからです。
 では、天下を治めるには、民に何を伝えるねばならないか? 龍安寺の手水鉢には金閣寺を作った足利義満に対する答えのひとつとして手水鉢ちょうずばちがあります。そこには「吾・唯・知・足」(われ・ただ・たるを・しる)とあります。○△□の庭では、垣根と手水鉢はともに龍安寺写によるものです。先に宝塚の青門で用いた同じ白磁の二連の水琴窟を埋め、山美しく、水清らかの美濃の地に育ち、平和を願い、礼儀正しい高校生の幸あれとの願いを込めて作庭したものです。庭をみる方々が人生を考える機会になればと思います。
ご清聴ありがとうございました。

もう少し詳しく知るために

 上で紹介された原田さん作庭の日本庭園の写真がもっとないかとネットで検索してみました。シェーンブルグ宮殿の日本庭園の造園に参加された庭師の方たち、チェコ、ピルゼン市のテレビ番組などが検索されましたので、紹介します。
シェーンブルン庭園の日本庭園
神仙・太極庭園
「翔和苑」(チェコ、ピルゼン市)